徳川家康が眠る「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」の詳細

徳川家康が眠る「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」
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記事タイトル 徳川家康が眠る「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」
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ブログ☞ヤマトタケルの旅 久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)所在地 静岡市駿河区根古屋390番地主祭神 徳川家康(東照大権現)社格等 別格官幣社創建  元和2年12月(1617年1月)本殿の様式 権現造久能山▶日本平はその昔、日本武尊が東征の際、草薙の原で野火の難にあい賊を…… more 平定した後、この山の頂上に登り四方を眺めたところからこの名で呼ばれるようになったといわれています。丘陵南域の久能山(標高216m)の山腹には徳川家康ゆかりの久能山東照宮があり、日本平山頂から東照宮までを日本平ロープウェイが結んでいる。▶久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。 久能山は推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能山麓に久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。▶永禄11年(1568年)、今川家を駆逐し、駿府へ進出した武田信玄は、駿河を一望できる久能山から久能寺を強制的に矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。▶しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。1616年(元和2年)4月17日(6月1日)徳川家康が駿府(現在の静岡市)で死去。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られた。「家康の遺言」幕府の公式記録である『徳川実紀』によれば、家康は元和2年(1616年)4月2日、側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を召し、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」と遺言したという。金地院崇伝の日記である本光国師日記には「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州(関東の相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の8国)の鎮守となろう」と残されている。家康の命に従い元和3年(1617)4月15日、久能山東照宮から下野国日光へ移され、同年4月17日、二代将軍秀忠はじめ公武参列のもと東照社として鎮座。その後、正保2年(1645)に宮号を賜ったことから、東照宮と呼ばれるようになった。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られた。日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の1周忌にあたる4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。ただし、遺言の「勧請」とは、分身や分霊を他の地に移して祀ることで、下野国日光に遺骸を遷すと言うことではありません。なので家康の遺命に従えば「家康の遺骸は久能山にそのまま」ということになります。推古天皇(592- 628年)の頃:久能忠仁が久能山麓に久能寺を建立。1543年(天文11年12月26日):徳川家康、誕生。1616年(元和2年) 4月17日(6月1日)徳川家康が駿府(現在の静岡市)で死去。 5月(6月)久能山で東照社(現・久能山東照宮)が着工される。 12月 東照社(久能山東照社)創建。大工の中井正清によって先ず本社、唐門、東門、玉垣、廟門、廟所宝塔、御供所などの主要社殿と坊四院などが完成された。1617年(元和3年)下野国日光に勧請される。日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の1周忌にあたる4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。1627年(寛永四年)、本地堂、宝蔵、楼門、1638年には五重塔が完成した。1624- 1645年(寛永年間)本殿、石の間、拝殿が檜皮葺から銅瓦葺きに変わる。また、木造の廟所宝塔を石塔に改める。1645年(正保2年)朝廷から東照社に宮号「東照宮」が宣下され、これよりのち、「久能山東照宮」の通称が成立する。1868年(慶応4年3月) 神仏分離令1871年(明治3年1)本地堂(薬師堂)を廃し、境内の日枝神社を遷す。1871年(明治4年5月14日)近代社格制度の制定1873年(明治6年)県社に列格。 神仏分離によって五重塔は競売に掛けられ、解体される。1888年(明治21年)別格官幣社に列格。1946年(昭和21年)社名を「久能山東照宮」とする。(それ以前は「東照宮」)2006年(平成18年)最近年に実施された社殿塗り替え事業の竣工。2010年(平成22年)本殿、石の間、拝殿が、国宝に指定される。なぜ?「久能山東照宮」から「日光東照宮」へ遷宮したのか?『転輪聖王章』によると、天海の考案した東照大権現の「祭文」に、山王一実神道について「全因襲大織冠談山大権現之体」とあり『東照大権現縁起』によると、「作法可准多武峯」と記され、家康公を山王一実神道で葬るアイディアは、多武峯(とう のみね)における藤原鎌足に求めている事が分かるという。『多武峯縁起絵巻』は、藤原鎌足公の誕生にはじまり、 当時の最高権力者・蘇我入鹿を倒して、大化改新の偉業を成し遂げたのち、 鎌足公の没後、長男の定慧が多武峯(とう のみね)に十三重塔を建立、 やがて霊廟(現在の談山神社本殿)にまつられ、藤原氏一族が繁栄するという。「久能山東照宮」から「日光東照宮」へ遷宮も藤原鎌足の葬り方を参考にしており、徳川の繁栄を願い藤原氏にあやかって参考にしたのではないかと言う。日光東照宮は談山神社の本殿をモデルにして建てられたそうです。「東照宮を巡る聖なる三本のライン」1本目御前崎から久能山東照宮を線で結んだ延長上には富士山、更に延長上に群馬県の世良田東照宮、更に延長しますと日光東照宮にいたります。2本目久能山東照宮から真西には駿府城、更に延長しますと鳳来山東照宮、更に延長上には、家康公が生まれた岡崎城、更に延長しますと京都に至ります。3本目日光東照宮の真南には江戸城、南面に立つ陽明門の真上には不動の北極星が輝き、星々はこれを巡ります。江戸城・日光東照宮・北極星を結ぶ南北線を中心に、この世の総てが運行するのです。久能山東照宮の配置をみると奥社は南南西を向いており、この軸線を北北東へ延ばすと富士山山頂を通過し日光東照宮へ達し、また久能山東照宮の日光へいたる拝殿と本殿を結ぶ軸線上には、家康の生母が子授けの祈願をしたという愛知県新城市の鳳来寺(ほうらいじ)、岡崎市の松平家代々の菩提寺である大樹寺、自らの生誕の地である岡崎城が西の方角にあることに由来し、これも家康の遺命によるものだという。つまり、久能山と岡崎を結ぶ「太陽の道」と江戸と日光を結び北極星にいたる「北辰の道」は久能山の社殿は位置によって見事に連結されていた。久能山東照宮を拝礼することは、家康が「不死山」として崇拝した「富士山」を拝礼することであり、日光東照宮を拝礼することになる。久能山太古は日本平とひと続きの山でした。東照宮のある山頂へは、日本平の山頂からロープウェイを使って行く方法と、山麓から1559段の石段を登る方法とがあります。戦国時代には、武田信玄公が築いた久能城がありました。楼門家康公の手形身長が155センチと小柄だったのね家康梅家康梅がちょうど咲き始めていました。鳥居鼓楼五重塔跡造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた唐門唐門の彫刻初夢に出てくると縁起が良いものと言えば、「一富士(いちふじ)、二鷹(にたか)、三茄子(さんなすび)」これは、駿河国(今の静岡県)の名物を列挙したものといいます。拝殿 本殿徳川家康(東照大神・東照大権現)(相殿)豊臣秀吉・織田信長江戸時代初期の代表的権現造で元和3年(1617年)落成。寛永年間に檜皮葺から銅瓦葺きとなった。設計を指示した大工棟梁は中井正清。江戸城、二条城、駿府城、増上寺、仁和寺、名古屋城などを手がけた当時最高の名工でした。江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。 2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。2015年(平成27年)には鎮座400年を迎え、様々な催し物が企画、開催された。神廟本殿の裏手山頂付近にある、家康が埋葬された場所に立つ神廟の横に、樹齢350年の「金の成る木」があります。徳川3代将軍・家光公時代に植樹された杉の木です「金の成る木」について家康は、諸人を前に「金のなる木」を問うと、誰も知らず、自ら筆を握り、三本の木を書き、 「よろづ程のよ木」「志ひふか木(慈悲深き)」「志やうぢ木(正直)」 これを常々信用すれば、必ず富貴を得られようと仰せられた。その後、細川忠興公が、これに左右の枝を描き 「あさお木(朝起)」「いさぎよ木」「志んぼうつよ木」「ゆだんな木」「ようじょうよ木(養生)」「かないむつまじ木」 と、書き加えられ「左右の枝が繁昌するならば一段と富貴がえられるであろう。皆々この「この金のなる木」を写し取って、家内の者に教えるようにと命じられといいます。 後に、この家康の墓の前の杉に、硬貨を供えるようになったとの事です。日枝神社御祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。創建当時は本地堂として薬師如来像(東照大権現の本地仏)が安置されていましたが、明治時代の神仏分離の際に仏像を移し、楼門内東側に鎮座していた山王社(さんのうしゃ)の御神体を納めて社名を日枝神社と改め現在にいたる。神輿庫ちょうど春季大祭 2月16日~18日帰りの参道で御朱印私感です【家康は秦氏か?】家康が眠る静岡の久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、もともと鉄舟寺(てっしゅうじ)の境内にあり、これを開いたのが秦久能忠仁(はたのひさよしただひと)といい、彼は秦河勝の息子だった。☞家康は自らが秦氏であるがゆえに、この地に埋葬するように遺言したという説がある。ブログ☞秦氏▶駿河国の総社は、静岡浅間神社です。静岡浅間神社は、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社からなり、三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われています。式内社二社(神部神社・大歳御祖神社)、駿河国総社(神部神社)。三社合わせて旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。◉神部神社 (かんべじんじゃ)祭神:大己貴命 (おおなむちのみこと) - 駿河国開拓の祖神崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられる。延喜式内小社で祈年の国幣に預った。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた。◉浅間神社 (あさまじんじゃ)祭神:木之花咲耶姫命 (このはなのさくやひめのみこと)全国にある浅間神社の一社。延喜元年(901年)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきた。◉大歳御祖神社 (おおとしみおやじんじゃ)祭神:大歳御祖命(おおとしみおやのみこと) - 倉稲魂神・大年神の母神で、神大市比売命を指す応神天皇の時代(約1700年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神でした。古くは「奈古屋神社」と称され、延喜式内小社で祈年の国幣に預った。この三社が鎮座する賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地として知られ、古代より神聖な神奈備山としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきたそうです。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳(国の史跡)も、当社の境内にある。また、秦氏の氏寺である建穂寺、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院で、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが当社の発祥であるともいわれている。徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬したといいます。1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行っており、1582年(天正10年)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するにあたり、「無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建する」との誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造したと伝わっています。以来当社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになったそうです。 ▶さて、秦久能忠仁は秦河勝の息子だといいます。秦 河勝は、聖徳太子の側近として活躍し、京都太秦を本拠地としていました。広隆寺 は、603年聖徳太子より仏像を譲り受け、推古30(622)年・太子の死後にその供養のため創建と伝わります。この広隆寺に毎年10月12日の夜、摩多羅神を主神とする『牛祭り』というお祭りがある。その祭りは、奇妙なお面をつけて牛に乗った摩多羅神がお出ましになる。摩多羅神のいでたちは白衣装束に紙をたらした冠をかぶり、その頭巾には北斗七星を載いている。▶また、河勝は猿楽の祖でもあり、能楽の観阿弥・世阿弥親子も河勝の子孫を称しました。禅竹は、面には目や耳や鼻の7つの穴があり、それは北斗七星を示しているという。▶河勝は、聖徳太子が世を去ったあと、蘇我氏の迫害をさけ、兵庫県の瀬戸内海に面した坂越(さこし)という地にたどり着き、80余年の一生を終えたと言われている。ブログ☞播磨の大地に刻印された北斗七星「大避神社」 服部幸雄によると芸能の神の信仰や歌舞伎について優れた研究成果を残した服部幸雄は、「後戸の神」「宿神論」といった芸能神信仰の一連の研究論文において、この摩多羅神が申楽の始祖神としての秦河勝=大酒明神(大避明神)との繋がり、「後戸の神」として猿楽法師たちの芸能の守護神であって「宿神」と同じ神であり、翁神・翁面として能楽の家系によって厳重に拝持されてきたことを実証した。▶秦氏と摩多羅神摩多羅神とは、主に天台宗寺院の念仏道場=常行堂の一角に祀られた霊異いちじるしい秘神。念仏守護の護法神で、慈覚大師(円仁)が唐より帰朝の際、船中に影向したとの所伝から、新羅明神や赤山明神と同じく「異神」と考えられる。常行堂はその荘厳法や儀礼のすべてが秘事とされ、摩多羅神の真容はタブーとして明かされていない。本貫地は比叡山延暦寺で、中世に慈覚大師の事跡と常行堂の様式ともども、日光山・毛越寺・多武峰妙楽寺、そして清水寺・鰐淵寺など各地の有力な天台寺院に伝わった。慈覚大師(円仁)は、下野国(栃木県)出身で幼少より日光の霊峰を仰いで育ち、やがて日光へ登山して金堂を創建し、常行堂、法華堂を建立して国家鎮護の道場として栄えたと言う。このとき建立した金堂が、いまの日光山総本堂の三仏堂に相当する。天海出身寺である龍興寺や、天海が住職だった川越喜多院の前身である無量寿寺は、慈覚大師(円仁)が興したものだった。▶【不動の北辰(北極星)になった徳川家康と北斗七星】ブログ☞山王権現比叡神を山王と称していたことから、「日吉山王社」、「山王権現」と呼ばれ、内には東西本宮を中心にして数多くの摂社・末社が鎮座し、これを各祭神の格式によって「上」「中」「下」の3階層に区分し、それぞれを七社とし、「山王二十一社」と称してきました。これは、「七」という数が、天台宗で”北斗七星”として崇められていたことによるものです。山王七社が揃って史料にあらわれるのは、1140年頃に著した「山王事」の記述で「七社権現」として七社の名が現れ、「山王曼荼羅」と呼ばれる天台宗の神道論の根本天理「山王一実神道」を図式化したものに、山王七社の神影像と三つの僧形の権現が描かれており、つまり神と仏の一致である神仏習合から天台仏教に神道の北斗七星が取り入れられたと言う。北斗七星の「七」という数は、古来東西を問わず聖なる数字として知られています。神道や仏教に影響を与えた陰陽道に置いては、「七」は鎮魂や浄化の数字として広く用いられました。また、北斗七星は、北極星の周囲を巡るので、それを守る役割があると考えられてきました。北極星は、古来より帝王を指し、「七」という聖数によって魔物を封じるとともに帝王を守るといた意味がありました。家康が北極星にたとえられ、宇宙全体の神として江戸城の真北に位置する日光に祀られました。日光は、開山当時より北極星との関係が考えられ、日光の「星の宮、本宮、東照宮本社、開山堂、二荒山神社、慈眼堂、犬猷院」を結ぶと北斗七星型の配置となる。徳川家康につかえていた江戸時代の僧・慈眼大師 天海は、家康の歿後、山王神道説をもとに山王一実神道(さんのういちじつしんとう)へと発展させ、山王一実神道に依拠して家康の霊を権現(東照大権現)の神号で祀ることを主唱しました。叡山延暦寺で生まれた神道の流派「山王一実神道」の提唱者であった天海僧正では、東照大権現、山王権現、摩多羅神は、三体一組である。東照大権現を単一の神として祀るのではなくて、東照三所大権現として、つまり、三神セットとして祀った。山王権現も摩多羅神も北斗七星に関わる神と言われる。ブログ☞摩多羅神 東照三所権現の一柱、玄旨帰命壇の本尊東照大権現の本地仏は薬師如来、山王権現は釈迦如来、摩多羅神は阿弥陀仏というのが、それぞれの本地仏である。日光東照宮では、これら三柱の神は東照三所権現として祀られる。東照大権現の「御本社」、山王権現の「山王」、「魔多羅神」の三つの御輿が、久能山から日光山へと遷座したことが文献的にも記録されている。日光・輪王寺には、江戸時代に作られた摩多羅神二童子図が所蔵されている。これに描かれた摩多羅神は、和風の狩衣姿に唐製の烏帽子を被り、不気味な笑みを浮かべながら鼓を叩く翁の姿をしている。頭上の雲紋には、北斗七星が配置され、武曲星の輔星 一字金輪が添えられている。翁の前には、風折烏帽子【かざおりえぼし】を被り、右手に笹、左手に茗荷をもって舞い踊るふたりの童子が描かれている。この二童子は、右が爾子多【にした】、左が丁令多【ていれいた】である。「玄旨帰命壇」の秘儀に、「本尊ハ俗形ニシテ、鼓ヲ持シ玉ヘリ、二童子ハ歌舞ノ形ナリ」とあるように、摩多羅神の図像は、摩多羅神が太鼓を持ち、二童子は笹の葉の上にのって小鼓を持ち、十二枚の笏を周囲に配して、恍惚として舞を舞う姿に描かれている。こういった摩多羅神像は関東の天台系寺院に伝承されている。摩多羅神の上辺には北斗七星が描かれている。摩多羅神は北極星の北辰信仰や、北斗七星の北斗信仰等、星辰信仰としての妙見信仰との関わりが深い。(輪王寺摩多羅神二童子図)▶生まれ変わり、再生「東照宮を巡る聖なる三本のライン」の2本目は、「死と再生を繰り返す太陽の道」ともいいます。久能山東照宮から真西には家康が亡くなった駿府城から、家康の父母が子授け祈願をした鳳来山東照宮、家康公が生まれた岡崎城へと続きます。久能山が埋葬の地として選ばれたのは、太陽の生まれる方向とし、ここが神として再生される場所であったからで、なおかつ、古代からの霊場、要害、景勝の地であったからという。摩多羅神の秘儀 も「生まれ変わり」や「子孫繁栄」といった意味があった。「二童子は歌を歌う。左の童子の歌は『シシリシニ・シシリシ』と歌う。シシは、男根の隠語であり、ソソは今日でも京都弁では、女淫のことをオソソと言う。ブログ☞摩多羅神 『摩訶迦羅大黒天』と秘儀現在相殿には、織田信長や豊臣秀吉がまつられていますが、それも後のこと最後まで呼んで頂き感謝です。 close

徳川家康が眠る「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」
サイト名 神旅 仏旅 むすび旅
タグ 神社
投稿日時 2018-04-17 03:00:04

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