嵯峨釈迦堂清凉寺の詳細

嵯峨釈迦堂清凉寺
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記事タイトル 嵯峨釈迦堂清凉寺
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ブログ☞京都嵯峨野を訪れる嵯峨釈迦堂清凉寺所在地京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46山号五台山(ごだいさん)宗派浄土宗本尊釈迦如来(国宝)創建年寛和3年(987年)開基奝然別称嵯峨釈迦堂札所等京都十三仏霊場2番文化財木造釈迦如来立像及像内納入品、木造阿弥陀三尊坐像ほか(国宝)…… more 紙本著色融通念仏縁起2巻、木造文殊菩薩騎獅像ほか(重要文化財)この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。▶【棲霞寺(せいかじ)】この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。▶【清凉寺】棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(“ちょうねん”938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」、釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像(985年とされ、「清凉寺様式」と呼ばれ、現在国宝)を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。▶大念仏(融通念仏)融通念仏宗は、平安末に浄土宗の一派で、開祖は大原の良忍(1072〜1132年)。衆民がともに声を合わせて念仏を読誦すれば、一人の唱えた念仏の功徳が他人に融通し、一人の念仏往生が衆人の念仏往生を約束するという。融通念仏との結びつきができたのは、弘安2年(1279年)以降のことである。この年、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、当寺で融通念仏を勤修している。その後、当寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、下って嘉吉3年(1443年)のこととされる。その後、応仁の乱で本寺の伽藍は焼失するが、文明13年(1481年)に再興された。享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり伽藍の破損は甚大となる。本寺の釈迦像は、前述のとおり、10世紀に中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった。こうした信仰を受け、元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。 このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や、阿弥陀三尊像(国宝、現在は霊宝館に安置)に、その名残りをとどめる。境内に奝然上人、源融、第52代・嵯峨天皇、檀林皇后、境外北側墓地に、遊女・夕霧太夫、円覚(十萬上人)などの墓がある。「五台山」の額が掛かる仁王門を入ると、正面に三国伝来の釈迦像を安置する本堂(釈迦堂)があり、本堂の東側には、旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像を安置していた(現在は霊宝館に安置)阿弥陀堂が、通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されている。また、本堂西側には南向きの薬師寺がある。仁王門から本堂への参道の西側には法華経に由来する多宝塔、法隆寺夢殿を模した聖徳太子殿、狂言堂などがある。参道を挟んだ東側には、堂の正面に傅大士(ふだいし)父子像が安置された一切経蔵(輪蔵)がある。境内には以上の他、宝物を収蔵展示する霊宝館、法然上人求道青年像、豊臣秀頼首塚などがある。仁王門(京都府指定文化財)天明3年(1783)に再建に取りかかり、翌年(天明4年、1784)上棟。寛政8年(1796)年に瓦葺工事を行いました。全体的に和様と禅宗様を折衷したものです。初層には室町時代の仁王像、上層には十六羅漢像を祀ります。ケヤキ造りの二階二重門です。法然房源空二十四歳 求道青年像仁王門を入ってすぐ左手に法然上人の像が、本堂に向かって強いまなざしを向けています。(法然上人絵伝より) 久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送り、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)の釈尊像の前に7日間おこもりした由緒ある▶法然と熊谷直実(蓮生房)源空(法然)が熊谷直実に宛てた書状は、現在まで四通が伝わっており、清涼寺には源空・証空自筆 二通(重要文化財)ある。源頼朝に仕えた御家人・熊谷直実は、1184年(寿永3年)の一ノ谷の合戦で、自分の息子と同年代の清盛の甥の平敦盛(齢十七)を「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。これ以後直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いはいっそう強くなったという(『平家物語』)のちに法然に弟子入りして出家した、その場所が金戒光明寺。法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」について、真剣にたずねたという。法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという。その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本も切り落とそうと思っていた直実は、号泣したという。家督を嫡子・直家に譲った後、建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり出家した。法名は法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)である。金戒光明寺には法然の廟の近くに、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。▶1204年5月13日蓮生、鳥羽にて上品上生の往生を発願する建永元年(1206)春 「蓮生法師夢記」(京都清涼寺蔵)蓮生の自筆の『夢記』は、現在、京都の清涼寺に重要文化財として所蔵されている。「夢記」は、元久3年10月1日夜に、40歳ばかりの僧と往生の法を論じ、 敗れた僧が消えてなくなった夢を見、同じ夜、氏神の御獄が正月1日に福神として訪れ直実を寿いだことを記している。 それは全三巻に仕立てられているうちの一巻であり、 第一巻は、法然上人と証空上人の、「四月三日付自筆消息」を合装したものであり、第二巻は、「熊谷直実自筆誓願状」と同じく自筆のこの 「夢記」とを合装し、縦27.2cm、横は五枚の紙を継ぎ合わせた全長2m12cmに及ぶ、長い巻物になっている。第三巻は、 「迎接曼茶羅由来記」である。熊谷直実(蓮生房)は、出家してのち法然上人に師事、念仏三昧の生活にはいる。迎接曼荼羅図は、蓮生房が往生の導きとして法然上人から与えられたとつたわる。建久8年(1197年)5月、嵯峨に法然寺を建立した。建久9年(1198年)、粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基する。直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのが始まり。「豊臣秀頼公の首塚」「大坂の陣諸霊供養碑」1980年に行われた大坂城三の丸跡の学術調査で、発掘現場から豊臣秀吉の三男の豊臣秀頼公のものと思われる頭蓋骨が出土し、1983年に、秀頼公が再興につくした由縁を持つここ清涼寺境内に首塚が造られ、ここにその首が納められています。本堂「本堂(釈迦堂)」 1016年に建立されてより幾度となく焼失・再建されていますが、1602年豊臣秀頼公により諸堂と共に整備されるも本堂は1637年の嵯峨の大火により焼失、現在のお堂は1701年徳川五代綱吉公と生母桂昌院の寄進によるもので桃山建築の豪華さを顕す建物とされています栴檀瑞像(センダンズイゾウ)、祀られている三国伝来の釈迦如来をさします、扁額は黄檗宗開祖・陽元師筆です【国宝木造釈迦如来立像および像内納入品】「三国伝来の釈迦像」。北宋時代の雍熈2年(985年)、仏師張延皎および張延襲の作。像高160.0cmで、伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られている。頭髪を縄目状に表現し、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣に衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示し、その様式は古代インドに源流をもつ中央アジア(西域)の仏像と共通性がみられる。当時、宋に滞在していた奝然は雍熈元年(984年)、当時の都であった開封(汴京)で優填王造立という釈迦の霊像を拝して、その模刻を志し、翌雍熈2年(985年)、台州開元寺で本像を作らせた。以上の造像経緯は像内に納入されていた「瑞像造立記」の記述から明らかであり、背板(内刳の蓋板)裏面には張延皎および張延襲という仏師の名が刻まれている。この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる。1954年に本像の背面にある背板(内刳部を蓋状に覆う板)をはずして調査したところ、内部から造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画など多くの「納入品」が発見された。これら納入品も像とともに国宝に指定されている。納入品のうち「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、現存する世界最古の内臓模型であり医学史の資料としても注目される。その他、奝然の遺品としては、生誕仮名書付(臍の緒書き、最古の平仮名文字といわれる)や手形を捺した文書なども発見された(像内納入品の一覧は後出)。本堂奥から方丈・方生池庭園に通じる回廊がある。弁天堂弁天堂は本堂の後ろの池に面して建っている。建築年代は江戸末期ごろと推定され、弁天堂のまわりは池遊式庭園になっています。本堂裏の方生池の中小島にある忠霊塔、供養塔塔内には各戦場の霊を弔う一万数千の写経石・ひめゆりの塔等の戦跡地の石が納められています大方丈前庭園方丈前庭は枯山水式になる。小堀遠州作とされる。苔地に方形の飛石、切石、奥に石が配され植栽がある。紅葉が美しい。阿弥陀堂本堂東に位置するのが阿弥陀堂。江戸時代末期の1863年の再建。嵯峨天皇の皇子左大臣源融が山荘・棲霞観を建て、後に棲霞寺と改め、これが阿弥陀堂の始まり。阿弥陀三尊像(国宝)は、霊宝館に安置されています。中尊の美仏、「阿弥陀如来坐像」(178㎝)は、嵯峨光仏と呼ばれている。定印(上品上生印)を結ぶ阿弥陀仏の最古例という。右足上で結跏趺坐する。阿弥陀像は、「源融のうつし顔」といわれ、『源氏物語』中の光源氏の面影を伝えるともいう。一切経蔵中に輪蔵があり一切の法・経典が納められ法輪を一回転させ一切経を読み功徳を得られるとされています。薬師堂西門から入ってすぐのところにあります。「薬師堂」薬師如来を安置し、嵯峨天皇の勅により空海が建立、疫病の平癒祈願されたのが始まりでとされています堂前の石塔「生の六道・小野篁公遺跡」 小野篁が冥土と現世を往復していたとされます、冥土から現世に戻る出口の井戸「生の六道」がここ元福西寺にあったとされています。多宝塔江戸時代、江戸・護国寺で釈迦如来像の出開帳が催された。この時の寄進により、江戸で造られたという。部材は廻船により運ばれ、1703年に清凉寺の境内に建立された。多宝如来を安置している。聖徳太子殿八角殿堂であり、奈良・法隆寺の夢殿を模している。融通念仏が聖徳太子の夢告による衆生再度実現との結びつきがあるとされ祀られています。1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが、大阪市平野区にある「融通念佛宗総本山 大念佛寺 」だといいます。愛宕権現社愛宕権現社は、奈良時代の慶俊が鷹ガ峰から愛宕山に愛宕権現を移転する際に、この地に一時遷宮していたという。祠殿は江戸時代、1716年に建立された。かつて、愛宕権現の本地・勝軍地蔵、竜樹、富婁那(ふるな)、毘沙門天が祀られていた。近代、1868年の神仏分離令以前は、愛宕の野々宮の神事は、当社前で行われていたという。【源 融公の墓】【嵯峨天皇と壇林皇后の宝塔】嵯峨院で亡くなり、深谷山陵(嵯峨陵)に葬られた。清凉寺に供養塔の宝篋印塔が立つ。【開山の奝然(ちょうねん)上人墓】御神紋御朱印私感です霊宝館おっとこちらのつり上がった目は東寺(教王護国寺)所蔵の木造毘沙門天立像とそっくり以前ブログで書きました日本人の精神世界の源流はどこか?その断片が、朝鮮半島や中国からではなく「古代アーリア人」へと繋がっている事をしりました。この「兜跋毘沙門天」もその一つブログ☞⑲ミトラ教~毘沙門天(多聞天)と兜跋毘沙門天毘沙門天と呼ばれるうちの地天女の両手に支えられて立ち、二鬼を従える姿で表された特殊な像は、「兜跋毘沙門天」と呼ばれます。私がはじめて「兜跋毘沙門天」を見たのは東大寺でしたが、それは驚きましたよ。女神を踏んづけているのかと思いましたし、どんな意味があるのか?興味津々でした。☞瞿薩旦那国、于闐国(現在の新疆ホータン一帯)初唐期にインドへ取経の旅に出た玄奘によって書かれた『大唐西域記』は、当時のシルクロードの毘沙門天信仰に関する記述が見られる。それは瞿薩旦那国(クスターナ)の建国伝説で、この瞿薩旦那国とは于闐国(現在の新疆ホータン一帯)のこと。「瞿薩旦那国の王が子供がいないことを案じて毘沙門天廟で祈ったところ、毘沙門天像の額が割れて中から子供が出てきた。王は喜んでこの子を王宮に連れ帰ったが、この子が乳を飲まないので再度毘沙門天に祈ったところ、今度は地面がふくれて乳のようになり、子供はこれを飲んで成長した」という。瞿薩旦那国はもともと毘沙門天が住んでいた場所であり、その王は毘沙門天の子孫であるという伝説がある。于闐に関しては、『新唐書』などの文献によると、貞観二十二年(648)に毘沙州が置かれ、上元二年(675)に毘沙都督府とされたという。毘沙門天が于闐国の建国神話に深く関わり、守護神として崇拝されていたことから、唐の行政機構も「毘沙」の名を冠することになった。于闐国の毘沙門天信仰は、唐代には朝廷にまで広く知られていた。不空訳の「毘沙門儀軌」の末に、唐玄宗の天宝元年(742)に亀茲の安西城が大食国などに包囲された時、不空等の建議によって毘沙門供養をおこなったところ、戦陣に丈余の毘沙門天が神兵を伴って出現し敵を駆逐したことを記している。以降諸国の都の楼門上にはこの形の「安西城毘沙門天」が安置されるようになったと伝えられている。19世紀末から20世紀初頭の外国探検隊による中央アジア調査とその報告書の刊行により、それまで文献の伝承によるほかなかった「兜跋毘沙門天」に対する研究がホータンのラワク遺跡出土塑像、敦煌石窟の彫像、壁画及び仏画などの実例を得て飛躍的に進展した。ホータンのラワク遺跡から見つかった塑像群のなかに、地中から半身をあらわした女形の地神に両足を支えられ、正面向きで裾長の服を着ている塑像がある。同型式の毘沙門天像は日本にも多くの図像や木彫像が残されており、代表的な作例としては、京都・東寺(教王護国寺)所蔵の木造毘沙門天立像があげられる。この毘沙門天像は「兜跋毘沙門天」という特殊な名称で呼ばれ、もと平安京の羅城門に安置されていましたが、816年の大風で門が倒壊したあと東寺に移されたと「東宝記」に記されており、安西城毘沙門伝説に由来する造像であることが知られている。兜跋毘沙門天は、「唐の安西城が外敵に襲われた時、城の北門の上に兜跋毘沙門天が現れて敵を追いちらした」という伝説があり、その後は城の楼門にこの兜跋毘沙門天を安置して外敵に備えるようになったと言われています。日本でも平安京がつくられた時、唐から持ってきた兜跋毘沙門天を羅城門の楼上に安置しました。それが、東寺(教王護国寺)所蔵の木造毘沙門天立像です。中国産のサクラでつくられた中国唐時代の仏像で、遣唐使の誰かによって、大陸から日本に請来されたのだといいます。兜跋毘沙門天は、その後日本各地でその模像が多数制作されました。しかし、今日まで残る兜跋毘沙門天のなかでも東寺の兜跋毘沙門天像を忠実に模し、できばえが優れているのは、清涼寺と奈良国立博物館に所蔵される二像と、鞍馬寺像だそうです。毘沙門天の両足を支えている地天については、『摩訶吠室囉末那野提婆喝囉闍陀羅尼儀軌』、『北方毘沙門天王隨軍護法儀軌』、『北方毘沙門天王隨軍護法眞言』、『吽迦陀野儀軌』などに典拠があり、中央の地天は、別名を歓喜天といい、左には尼藍婆、右には毘藍婆という二鬼がつき従うとされる。最後まで呼んで頂き感謝です。 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嵯峨釈迦堂清凉寺
サイト名 神旅 仏旅 むすび旅
タグ お寺
投稿日時 2018-06-18 01:41:03

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