龍田大社へ参拝の詳細

龍田大社へ参拝
日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
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記事タイトル 龍田大社へ参拝
概要

龍田大社へ参拝(令和2年一月四日)奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1に鎮座する神社です。龍田大社(たつたたいしゃ)は、奈良県生駒郡三郷町立野南にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 旧称は「龍田神社」。風の神(風…… more 神)として古くから信仰を集める。ようやく参拝させて頂きました。以前、ナビに打ち間違え龍田神社に参拝させて頂いていました。龍田大社と言えば、花火を両手に持っている写真をみたことがあります。(有名なんでしょうか?)大阪の家から下道で約90分で到着しました。駐車場(無料)は約20台ぐらい停めれたと思います。参拝後、次に箸墓古墳に参拝させて頂きました。卑弥呼のお墓か?ともいわれてるかと思います。龍田大社から約40分で到着。たぶん国道(大通り)沿いに、10台ぐらいの無料駐車場がありました。『日本書紀』でやまとととひももそひめが、夜しか会いにこない大物主神を怪しんで朝に顔をみようとのぞいたらへびがいて、御諸山(三輪山)に登って行きました。それを見て、悔いて座りこんで箸がささって亡くなったと載っているとのことです。飛騨の口伝ではそのヘビが出雲神教のおおたたねこの息子であり、その子供を身ごもってしまい、のっとろうとしている出雲神教正体を知ったので悩んだ挙句、箸をついて流産させ亡くなられたと書いてあったような気がします。風鎮大祭七月第一日曜日の行事例大祭と同じ意味合いのお祭りで、年間祭事中、最も重儀です。行事は祭日1週間前から前日までの、1日2度の御饌祭(みけさい)*に始まり、結願日(けちがんび)である7日目に風鎮大祭が行われます。祭典後には、剱舞や民踊などの神賑奉納行事が行われ、火のごちそうである「風神花火」をお供えし風鎮大祭の締めくくりとなります。*御饌祭:朝食・夕食をお供えすること主祭神天御柱命(あめのみはしらのみこと) 国御柱命(くにのみはしらのみこと)龍田の風神と総称され、広瀬の水神と並び称された。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。 社格等式内社(名神大2座) 二十二社(中七社) 旧官幣大社別表神社創建(伝)第10代崇神天皇年間本殿の様式春日造歴史概史『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。 国史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国平群郡に「龍田坐天御柱国御柱神社二座 並名神大 月次新嘗」として、二座が名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。 明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において「龍田神社」として官幣大社に列した。 紅葉の名所としても有名である。摂社龍田比古龍田比売神社の祭神である龍田姫は秋の女神とされ、古来より多くの歌に詠まれてきた。 【箸墓古墳】箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。また周濠が国の史跡に指定されているほか、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選の1つに選定されている。概要纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。築造年代は3世紀末から4世紀前期とする説もあるが、これは卑弥呼が死亡したとされる3世紀中期との時期にずれがあり、また古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっている。しかし、周辺の周壕から出土した土器の考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説もあるものの、近年炭素14年代測定法では50-100年程度古く推定されることが明らかとなっている。墳墓からは種々の特殊埴輪類が出土しており、また周壕の基底部から馬具(木製の輪鐙)が出土していることから、4世紀中期以降の可能性もある。現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。名の由来『日本書紀』崇神天皇10年9月の条に、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)また、築造について日本書紀は記す。「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも 」と。なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀か)と神話における説話との間に大きなずれがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になったという土橋寛の説もある。被葬者宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。その根拠としては、この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致することとしている。定説では、魏・晋時代の一尺は24.3センチメートル、一里は1800尺=300歩であり、魏・晋時代の1里は約435メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となる(日本では、これを長里と呼ぶ説がある)。後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること。この点は調査により当初から前方後円墳であったことがわかり否定されている。大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること。一方これに対する反論もあり、根拠としては、日本では、その旅程記事などから一里約76メートル(これを短里と呼ぶ)とする説も唱えられており、魏志倭人伝で距離表示に短里が用いられているとすれば直径は約30メートルとなる。またこれだけ巨大な前方部が無視されている合理的な説明がつかない。もっとも早い蓄造であっても並立王朝説などに対しては全く反論にならない上、早くとも3世紀後半という卑弥呼没年との築造年代のズレも問題がある。殉葬跡が存在せず、箸墓古墳と同時期に築造された古墳は全て有棺有槨であるなど、倭人伝の記述と全く一致していない。といったものがある。このような議論があり、意見の一致を見ていない。白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べる[のに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。宝賀寿男は古代氏族研究を通じて古代においても男性優位であった状況を踏まえ、女性陵墓説を退けて実質的な王権設立者である崇神天皇の真陵説を唱えている。奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を280~300年(±10~20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。また同研究所が箸墓古墳に先行するホケノ山古墳の築造年代について、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しており、C14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることが判明したことから、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低くなっている。いずれにせよ、現在ではようやく発掘許可がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりである。Wikipediaより抜粋【鳥居】【社号標】【変額】【重要な石でしょうか?結界が張られています】【手水舎】【手水舎の龍】【初春用の手水】【あの狛犬】【うんの狛犬】【拝殿】【本殿】【風の言霊】【末社  白龍神社】【末社  龍田恵比須神社】【末社  三宝稲荷神社】【末社の看板】【大日本帝国海軍     】【御朱印】【桜井市周辺地図】【箸墓古墳の鳥居】【箸墓古墳の鳥居と石碑】【宮内庁の看板】【箸墓古墳の稜線】【箸墓古墳の側面】【箸墓古墳の側面からみたところにある石碑】ここで15,16人ぐらいの団体に写真撮影を頼まれました。 close

龍田大社へ参拝
サイト名 日本の歴史とつながる週末御朱印さんぽ
タグ 奈良県 神社
投稿日時 2020-01-19 03:00:08

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