開口神社(堺市堺区) ・「大寺さん」とも呼ばれる神功皇后勅願と伝わる式内社の詳細

開口神社(堺市堺区) ・「大寺さん」とも呼ばれる神功皇后勅願と伝わる式内社
ちょっと気になる! ~大阪発史跡旅~
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記事タイトル 開口神社(堺市堺区) ・「大寺さん」とも呼ばれる神功皇后勅願と伝わる式内社
概要

開口神社2020年3月訪問開口神社(あぐちじんじゃ)は大阪府堺市堺区甲斐町東(かいのちょうひがし)にある神社です。大阪第二の都市である堺の街中に鎮座する開口神社の周辺は、北側に大小路(おおしょうじ)、南側にフェニックス通りといった大通りが東西に伸び、西側は商店街となっているなど、…… more 賑やかな場所となっています。開口神社(堺市堺区) 歴史的には神功皇后の勅願により創建された古い神社とされる当社は、平安時代に記された延喜式神名帳にその名を記載された式内社(小社)で、和泉国大鳥郡24座の一つに数えられています(旧堺市街唯一の式内社)。境内には多くの神々が祀られている他、行基ゆかりの神宮寺があったことから今も地元では「大寺さん(おおてらさん)」とよばれ親しまれています。 歴史と概要社伝によると、開口神社の創建は神功皇后の三韓(朝鮮半島)征伐の時代にまで遡ります。三韓征伐からの帰途、神功皇后は石津浜に上陸し塩穴松原にて忍熊王の反乱を平定すべく戦勝祈願の祈祷をしました。その際、老漁師が赤目魚(鯛)を献上したことを吉祥の証と喜んだ神功皇后の「八重潮路に向かう地に塩土老翁(鹽土老翁・しおつちのおじ)の御魂をお祀りせよ」との詔により創建されたのが開口神社の始まりとされています。なお、神功皇后は同時期に、摂津国住吉郡の豪族である田裳見宿禰(たもみのすくね)に津守氏の姓を与え、住吉三神を祀るように告げたことが住吉大社の起源とされています。天平3年(731年)の記録では「開口水門姫(あきぐちみなとひめ)神社」と書かれている他、後の延喜式神名帳では「開口」の読みが「あきくち」となっており、これが後に訛って「あぐち」となったと考えられています。天平16年(744年)、行基によって薬師如来を本尊とする密乗山念仏寺が境内に建立されますが、やがて神仏習合化が進むと当社の神宮寺となりました。平安時代に入ると、念仏寺は空海(弘法大師)の影響により真言宗の寺院となりましたが、浄土教の先駆者とも評される空也ともゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈し、やがて念仏寺は「大寺」と称されるようになりました。承平2年(932年)には神階が正五位上まで上りました。その後、天永4年(1113年)に、開口村にあった当社の塩土老翁と、木戸村の素盞嗚命、原村の生国魂命が合祀され、「三村宮(みむらぐう)」や「三村明神(みむらみょうじん)」、「開口三村大明神」などと呼ばれ当時の堺の総氏神として崇敬を集めました。応永32年(1425年)に朝廷の、応永34年(1427年)には室町幕府の祈願所となっています。天文元年(1532年)12月に堺の町の大半を焼く大火災があり念仏寺の築地塀が壊れたため、その修理料として天文4年(1535年)に堺南荘の豪商110余名が一人当たり一貫文の銭を寄進した記録が「念仏寺築地修理料差文」として開口神社に残っています。この文書に「今市町 与四郎殿 せん」とあるのが茶聖とも称せられる千利休で、「舳松町 紹鷗 皮屋」とあるのが豪商で茶人の武野紹鷗(たけのじょうおう)です。明治時代に入ると、神仏分離令によって神宮寺である念仏寺は廃寺となりましたが、寛文3年(1663年)に建築された三重塔はそのまま残されました。明治6年(1873年)に旧社格制度で郷社に列し、明治35年(1902年)に府社に昇格しました。また、明治7年(1874年)5月には、堺県により裁縫を教える「堺女紅場」が開口神社に設置されています。第二次大戦末期の昭和20年(1945年)7月10日の第6回大阪大空襲(堺大空襲)により本殿と三重塔を含めたほとんどの建物が焼失しましたが、貴重な記録類は被害を免れました。その後、昭和39年(1964年)に現在の社殿が再建されました。開口神社の御祭神は塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神ということで、かつての開口村、木戸村、原村の神三柱が本殿に祀られている他、多数ある境内社にも様々な神が祀られています。御祭神の御神徳として、塩土老翁神は航海、塩を司る神であり、物知りの神、命の根源を護る神、さらに安産の神として、素盞嗚神は疫病除災の神、開運の神として、生国魂神は国土開発、発展の基となる神として崇められています。なお、南河内では、塩土老翁を祀る神社として羽曳野市西浦の鹽竈神社・正神神社が、神功皇后ゆかりの神社としては河内長野市小山田の住吉神社があります。説明板 文化財元禄3年(1690年)に制作された土佐光起筆の「紙本著色大寺縁起 3巻」、鎌倉時代の仮名の名筆、和歌の詠み手として知られる第92代伏見天皇の「紙本墨画 伏見天皇宸翰御歌集(ふしみてんのうしんかんおんうたしゅう)」、室町幕府10代将軍足利義稙(よしたね)寄進と伝わる「短刀 銘吉光(たんとう めいよしみつ)」は国の重要文化財に指定されています。また、「開口神社文書」は鎌倉時代から江戸時代にかけての開口神社と神宮寺である大寺念仏寺関係の古文書で、こちらは大阪府の有形文化財に指定されています。なお、様々な開口神社所蔵の文書をまとめた「開口神社史料」が社務所にて授与されているようです(詳しくは開口神社社務所まで)。祭礼開口神社の主な祭礼としては、1月1日の元旦祭、15日のとんど祭、2月の節分祭、3月の初午祭、5月5日のさつき祭 、6月30日の大祓・茅の輪くぐり・流鏑馬神事、9月中旬の例祭「八朔祭(はっさくさい)」、11月28日の「三宝荒神祭」などがあります。この内、9月中旬の八朔祭では堺最古のふとん太鼓が奉納されます。●開口神社 ホームページ →https://aguchi.jp/●開口神社 Facebook →https://www.facebook.com/aguchijinja/堺の歴史「堺」という地名は摂津国、河内国、和泉国の「境」に町が発展したことによると言われており、平安時代の藤原定頼の歌集に「さかゐ」の名があります。三令制国の境は三国山(現在の三国ヶ丘)と呼ばれ、そこには方違神社(ほうちがいじんじゃ)が鎮座していることが知られています。三国ヶ丘周辺には世界文化遺産にも登録された仁徳天皇陵をはじめとした百舌鳥古墳群があり、後に港町として発展する堺の町はその北西に開かれました。飛鳥時代には、堺周辺に難波京や難波津から四天王寺を経て上町台地を南北に貫く難波大道、さらに大和の飛鳥の都方面とを東西に結ぶ丹比道(竹内街道の前身)や大津道(長尾街道の前身)が整備されました。室町時代から戦国時代になると、それまでの兵庫湊に代わり海外との貿易の拠点となった堺は「東洋のベニス」としてヨーロッパ諸国にも認識されていました。また、中世以来の環濠都市である堺では、会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう)と呼ばれる商人たちによって自治的な都市運営が行われていました。この自治は織田信長や豊臣秀吉の時代に終わりを迎えますが、当時の堺の産業面では鉄砲生産が、文化面では千利休、今井宗久、津田宗及に代表される茶の湯などが良く知られています。そんな堺の旧市街は、おおよそ現在の堺市堺区の南海本線の東、阪神高速15号堺線の西のエリアで、旧市街地を東西に横断する大小路という道路は永らく摂津国と和泉国の国境とされ、大小路の北が摂津国、南が和泉国となっていました。大小路の国境としての役割は明治4年(1871年)9月に国境が大和川に変更されるまで続き、以降は堺全域が和泉国となりました。この大小路の少し南に鎮座するのが開口神社で、堺南組(大小路以南)の氏神社とされています。ちなみに、堺北組(大小路以北)の氏神社は堺区戎之町東にある菅原神社で、こちらは「堺天神(さかいてんじん)」とも呼ばれています。また、旧市街の北東の堺区北旅籠町東には駅名にもなっている高須神社があります。境内元来の堺の旧市街地は(阪堺電気軌道が中央を通る)紀州街道を南北幹線として碁盤の目のように区画整備された街で、開口神社の境内もまたその区割りの一角にあります。ちなみに、堺旧市街での紀州街道は正確に南北方向ではなく少し北東から南西寄りの道路となっているので町割りもそれに準じた碁盤の目となっています。開口神社の境内入口は東西南北の4ヶ所ありますが、今回は最も参道の雰囲気がある西門から参拝しました。堺山之口商店街北端 開口神社は大小路以南の堺旧市街の氏神社ということで、大小路に面した堺山之口商店街の北側出入口に「開口神社 参拝道」と描かれた看板が掲げられています。なお、フェニックス通り(国道26号、府道2号大阪中央環状線)に面した堺山之口商店街南端にも同様に「開口神社 参拝道」の看板があります。また、フェニックス通りの南側には宿院があり住吉大祭の神輿の御旅所となっています。西門の鳥居 堺山之口商店街のちょうど中頃、東側に開口神社の西門があり、石造りの鳥居が建っています。商店街から見た西側の参道 玉垣の並ぶ西門には鳥居の他に「府社開口神社」と彫られた社号標もあるのでこちらが本来の表参道になるようです。海会寺金龍井 西門から境内に入ると、まず右手の「海会寺金龍井(かいえじきんりゅうせい)」が目に入ります。海会寺金龍井説明板 説明板によると、臨済宗東福寺派海会寺は、元弘2年(正慶元年。1332年)に洞院公賢(とういんきんかた)が草創し、広智国師乾峯士曇(けんぽうしどん)を招いて開山とした寺院で、元は大寺(開口神社)の西門付近にありましたが、後に堺区南旅篭町東にある三好氏の菩提寺、南宗寺境内に移転しました。海会寺井とも呼ばれる金龍井は、海会寺がこの付近にあった頃、乾峯和尚の徳を慕って老人に化けて教えを乞いに来た鬼面龍神(金面龍王)が、お礼として旱魃に困る人々のために水の出る場所を教えて掘られた井戸と伝えられています。江戸時代には豆腐製造や茶の湯に適した水と評判の井戸だったようです。平成16年(2004年)11月に、大小路界隈「夢」倶楽部により井戸前に館が完成し金龍井が復活したそうです。境内から見た西側の参道 西門からの参道は40mほどあり、狛犬や多数の石灯篭が並んでいます。また、途中の金龍井と反対側(北側)には「三好元長戦死跡碑」あります。阿波国(現徳島県)の三好氏と関係の深い顕本寺がこの辺り(甲斐町山ノロ)にあったとされます。三好元長、赤松政祐、細川晴元らは享禄4年(1531年)の大物崩れで細川高国、浦上村宗らに勝利しましたが、翌年晴元は袂を分かった元長へ一向一揆を差し向けたため、元長は顕本寺へ逃れた末に自害に追い込まれました。また、西門の狛犬は江戸時代末期の文久3年(1863年)に「ウオンタナ(魚之店)」から奉納されたものです。今の宿院町東の大道寄りの地域が戦前ウオンタナと呼ばれ、海産物問屋の人達が多かった地域のようです。大阪府立三国丘高等学校発祥之地碑 西側の参道を20m少々進むと南門からの参道と合流しますが、その角に「大阪府立三國丘髙等學校發祥之地」の石碑があります。明治時代には、開口神社の境内に堺市役所、大阪府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校、堺市立第一幼稚園などが置かれたこともありました。手水舎 さらに参道を進むと左手に手水舎があります。この手水舎は昭和20年の戦災で焼けずに現存しているものです。手水鉢は宝永7年(1710年)3月に大町浜の住人が奉納したものですが、表には丸に錨型十字紋が入っていることから、隠れキリシタンの意味があるという説も(諸説あり)。境内の南側 西門から50mほどで拝殿の正面、境内南側の中央付近となります。ここで南側を向くと、右から山本梅史(ばいし)句碑、神馬像、針塚、納札所、豊竹稲荷神社(後述)があります。この辺りは境内ですが駐車場となっているようなので注意が必要です。境内から見た東門の鳥居 境内南側の中央付近から約20m東には赤い大鳥居の建つ東門が見えます。この鳥居のそばに開口神社の説明板があります。東側の通りから見た東門 東門は通りに面しており鳥居も大きいので、車の場合はこちらから境内に入れます。社務所と瑞祥閣 境内南側の広場中央付近から拝殿の左側を見ると、手前に社務所、その奥に瑞祥閣があります。瑞祥閣では展示会、研修会、会議、教養講座、習い事教室、サークル活動等に使用できる部屋を借りることが出来ます。なお、開口神社では、芸事、習い事上達に御神徳のある扇塚が祀られています。拝殿・本殿 そして、広場から北の方を向くと、真っすぐ伸びる参道の先に拝殿・本殿が見えます。拝殿の「開口大神」の額 前述のように、堺旧市街の道路はぴったり東西南北を向いていないので、それに合わせて建てられている本殿もやや南西を向いています。なお、社殿などで見られる開口神社の社紋(神紋)は珍しい「三つ茄(三ツ茄子)紋」です。戦災復興完遂記念碑 本殿の右側(東側)には、「戦災復興完遂記念碑」が建てられています。ホームページによると、本殿・拝殿が再建されたのは昭和39年ですが、境内の戦災復興整備が完了したのは平成元年(1989年)だそうです。境内の東側 本殿での参拝の後は、多数ある境内社などをお参りします。まず、境内から見て東門の右手にあるのが豊竹稲荷神社で御祭神は倉稲魂命となっています。毎年、旧初午の日に初午祭が執り行われます(餅まきあり)。三宝荒神社 鳥居の左手からは多くの境内社などが並んでいます。まだ新しい石の鳥居があるのが三宝荒神社で、別名を竈神社(かまどじんじゃ)と言います。台所の神様として慕われており、毎年11月28日には三宝荒神大祭があります。影向石 その左には「歌塚」があり、裏側には「つといをはしめてより、とゝせニあれたるをもて、のちのおもひにとこれをたつ 明治37年11月敷島会」と刻まれています。これによると敷島会は堺の歌人達によって明治27年(1894年)に発足した事になります。与謝野晶子は明治29年(1896年)5月に入会しているそうです。さらにその左には立派な石灯篭と古い石造りの鳥居があり、その先に影向石(ようごういし、えいごうせき)が祀られています。これは、神仏が降臨する際の御座の石の事で、各地にあります。当社の影向石は「塩土大神が行基菩薩と法談される際に腰かけられた」、とも「弘法大師とお会いになられたとき座られた石」とも伝えられ、緑がかった二つの石からなっています。扇塚 影向石の左側には扇塚があります。扇塚は芸能の神で、毎年11月上旬には扇塚前で使い古した扇を供養し、芸事の上達を祈願する「扇まつり」が行われています。白一龍神社 扇塚の左には絵馬掛けがあり、さらにその隣には注連縄の巻かれた自然石のような白一龍神社が祀られていますが、こちらは珍しい歯の神様です。なお、南河内では松原市上田に歯の神様を祀る柴籬神社があります。東側にある三棟の合祀殿 白一龍神社の左手には3つの社が並んでいます。これらは右が白髭神社と塞神社(庚申さん)を、中央が舳松神社と松風神社を、左が菅原神社と岩室神社を祀っています。泉陽高等学校と与謝野晶子の碑 三棟の二社合祀殿から少し本殿寄りに「大阪府立泉陽髙等學校發祥之地」碑と与謝野晶子歌碑があります。与謝野晶子(正字:與謝野晶子)は、明治11年(1878年)12月7日に開口神社から200mほど西にあった老舗和菓子屋「駿河屋」にて生まれました。生家跡は現在、大道筋(紀州街道)の道路上となっていますが石碑などが建っています。晶子の出生名は「鳳 志やう(ほう しょう)」で、ペンネームである「晶子」の「晶」は本名の「しょう」から取ったそうです。雑誌「明星」に短歌を発表し、ロマン主義文学の中心的人物となった晶子の出身校が、大阪府立泉陽高等学校の前身である堺市立堺女学校技芸科です。こちらの歌碑には「少女(おとめ)たち開口(あぐち)の神の樟(くす)の木の若枝(わかえ)さすごとのびて行けかし」という晶子が幼少時代遊んだ歌が刻まれています。これは開口神社の境内にあった樟を見て詠んだ歌で、同郷の未来ある女性たちに向けて開口神社の樟の大木から、若い枝が生き生きと伸びていくように成長して欲しいという強い願いが込められていた、とされています。現在この樟は残っていません。これらの石碑の裏側(北側)には茶室「無礙庵」があります。これは、茶道勃興期の指導者として千利休などに大きな影響を与えた武野紹鷗好みの茶室と伝えられ、戦前は八窓茶室(八窓の席)と称されていた茶室が、昭和20年の戦災で焼失し、平成元年に再建されたものです。八窓といいながら七つの窓であることから「無礙庵」と名付けられたそうです。内部非公開。 薬師社 茶室の奥(境内の北東角)には客殿があります。拝殿の右手から客殿前を抜けると本殿裏手に出ますが、境内の北側には薬師社などが並んでいます。神社ということで薬師堂ではなく薬師社となっているようですが、当社で唯一神仏習合の要素が残っている社です。こちらでは神宮寺であった念仏寺の本尊、薬師如来を祀っています。境内北側の合祀殿 薬師社の左側には二棟の合祀殿があります。右の合祀社には、熊野神社、厳島神社、兜神社、三宅八幡神社、琴平神社、神明神社、豊受神社が、左の合祀社には産霊神社、北辰神社、大国魂神社、恵比須神社、少彦名神社、舟玉神社、楠本神社が祀られており、立札にはそれぞれの御縁日と御祭神が記されています。また、これらの合祀殿の向かい側、本殿の裏側には「堺の幼稚園教育発祥の地」の石碑があります。明治19年(1886年)5月に私立の幼稚園が当神社境内に設立され、翌年公立堺幼稚園となりましたが明治22年(1889年)9月に廃止となります。その後、明治32年(1899年)に再び境内連歌所に市内の有志者と市の補助で、私立堺幼稚園が設立され市立幼稚園の前身となりました。石碑に「第一」とありますが、堺市立第一幼稚園は平成30年(2018年)度をもって閉園しています。境外から見た北門の鳥居 本殿と瑞祥閣の間を奥(北)に進むと、左右合祀社に向かって左側に北門があり、石造りの鳥居が建っています。神社の北面 開口神社は東西南北それぞれに出入口がありますが、現在南側以外に鳥居があります。神功皇后の勅願によって創建された開口神社には長い歴史があり、多くの神々が祀られ、文化財も多数残されています。また、有名な堺の商人や文化人ゆかり地であり、学校教育発祥の地でもある当社はまた、祭などを通じて今も多くの人々に信仰されている非常に見どころの多い神社といえます。アクセス南海高野線「堺東」駅前の「堺東駅南口」交差点から大小路筋を西に進み、「市ノ町東」交差点を左折。200mほど進むと右手に開口神社の東門の朱色の鳥居が見えます。車の場合はこちらから入ります(駐車料金は無料)。南海本線「堺駅」または南海高野線「堺東駅」から南海シャトルバスに乗車し、「大寺北門山之口前」バス停で降りると、すぐ西に上記の「市ノ町東」交差点があります。阪堺電気軌道阪堺線「大小路」停留所、または「大小路(堺警察署前)」交差点からは、大小路筋を東(南東)に約100m進み、南側の堺山之口商店街に入ります。商店街のアーケードの下を南に180mほど進むと左手に開口神社西門の鳥居があります。Aguchi Shrine(Sakai Ward,Sakai City,Osaka Prefecture) close

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タグ お寺 大阪府 式内社 神社
投稿日時 2021-01-28 00:40:05

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