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 冷たい桜雨がぽつぽつとおりてくる4月3日(日曜日)、川越散策の3月30日を振り返るのはもうおしまいにしようかなって。 でも、もうひとつアタマのなかにもやもや渦巻いていたのが、喜多院での「家光」のこと、「春日局」のことなんだって。 そう、あの日の30日、「あれ?弟がいたよねぇ~」…… more と仲間の江戸ちゃんに声をかけていました、それが「忠長」!兄?弟? ヤッホーくん、言及したのです、以前にも、それがこちらです、ぜひヤッホーくんの次の日付けの日記をお読みください:★ 2012年07月12日付け日記「乳母お清の方」 江戸幕府の3代将軍・徳川家光の弟・忠長は1633(寛永10)年12月、上野(こうずけ)高崎(群馬県高崎市)で自害した。 享年28。 駿河(静岡県)などを治めていたが、兄の命による改易処分で領地は没収され、1年あまり高崎城に幽閉されていた。 謎多きその生涯を史料から解き明かした本が出版された。『徳川忠長:兄家光の苦悩、将軍家の悲劇』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー 527、2021年6月)と題した一冊をまとめたのは、幕藩政治史に詳しい東洋大学非常勤講師の小池進さん。 兄との確執で自害に追い込まれたと理解されてきた忠長の生涯を、信頼度の高い史料で明らかにした。 忠長は1606(慶長11)年、2代将軍・秀忠と正室・お江与(えよ)(お江〈ごう〉)の子として生まれた。 駿河、遠江(いずれも静岡県)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)などで50万石(著者、角津栄一注:55万石という説もある)を領し、駿府城(静岡市)を主な居城として与えられ、「駿河(するが)大納言(だいなごん)」とも呼ばれた。 だが、家臣を手討ちにするなどの非行で1631(寛永8)年、甲斐甲府(甲府市)に謹慎処分とされた。 江戸や駿府に近く、忠長の領内でもあった甲府が謹慎の地に選ばれたことについて、小池さんは「家光は、正気を取り戻して更生すれば駿府藩主として存続する余地を残した。忠長を思いやっていたことがうかがえる」と分析する。 ただ、翌年の1632(寛永9)年、忠長は高崎へ幽閉とする逼塞(ひっそく)処分となり、所領は没収された。 処分の背景について小池さんは「お作法が万事悪い」とする幕臣の書状を紹介する。「家光への不遜な態度が目立っていたことで、将軍の対面や威信を汚すような態度が改善されない以上は、より重い処分を下さざるを得なかったのだろう」と考える。 家臣団も領地や屋敷を没収されたが、その1人は「自分の身はどうなっても主君忠長のためと思えば、少しも物憂きことはない」と書状に残した。 小池さんは「正常な状態の忠長には、主君として十分な『器量』が備わっていたのかもしれない」とみる。 自害について「直接的とは言えないまでも、家光の働きかけによって忠長が自害に至ったと言える」という。 その背景に、家光の健康状態のほか、当時は2代将軍・秀忠が死去して「代替わり」の時期だったことを指摘する。「秀忠亡き後の不安定な状況の中で、将軍職の継承権を持つ忠長の存在そのものが、代替わりの危機を一層増幅させていた」と話す。◇ ◇ ◇ 徳川忠長の幽閉先として、なぜ高崎が選ばれたのか。「高崎藩主の安藤家と徳川家の関係が背景にある」と指摘するのは、元高崎市史編纂(へんさん)専門委員の横倉興一さん(78)だ。 横倉さんによると、幽閉された時の藩主だった安藤重長の父・重信は、大坂の陣で2代将軍・徳川秀忠の側近として指揮者をつとめた。 大坂城落城の際には、豊臣秀頼の妻だった千姫(秀忠の娘)の救出に貢献したという。 また重長の妻は、忠長の母・お江の養女。 お江は織田信長のめいであり、安藤家も織田家の系譜にあった。 横倉さんは「甲府からの幽閉先として、お江一家に親しい安藤重長が選ばれた。安藤家なら、大荒れせずに忠長が自害すると期待していたかもしれない」とみる。 その後、母お江と父秀忠が亡くなった後、忠長は自害に至った。 横倉さんは「将軍職の継承権を確立するために、実弟に対して切腹を申しつける、または斬罪に処するといった方法ではなく、幽閉先で自ら死に至らしめる方法が採られたのでしょう」と分析する。 忠長の性格は、母方の織田信長に似ていたという。「忠長は武芸を好み、旧弊を取り除く合理性と先取り精神があった」 最期の様子は、安藤家記によると、酒で不安を紛らわせて自害に至ったという。[写真]徳川忠長の墓=群馬県高崎市、大信寺朝日新聞、2022年2月27日 10時30分徳川家光の弟・忠長、なぜ自害?謎の生涯を解き明かす一冊(角津栄一)https://www.asahi.com/articles/ASQ2V6TZLQ2QUHNB001.html  うん、うん…… 誰にだって、忘れられない恩義の1つや2つはあるだろう。 ただ、そんな超アツアツの「恩義」を感じるのはどちらかというと、「他人に対して」という気がする。 本来ならば、助けてくれる義理もない。もともと、最初から相手に期待しないからこそ。味方になって助けてくれれば、余計に有難いと思う。だから、恩義を感じてしまうのではないだろうか。 そういう意味では今回ご紹介する方は、非常に珍しいタイプ。なぜなら、彼が恩義を感じた相手は、まさかの肉親。それも、祖父だったから。 誰かといえば築かれた江戸幕府の土台を、さらなる強固なものとした3代将軍・「徳川家光(いえみつ)」。そして、そんな彼が恩義を感じていたのが江戸幕府を開いた張本人、初代将軍・徳川家康、その人なのである。 その恩義は、海より深く、空より高く、ドン引きするほど真剣で、煮えたぎるほどの熱狂ぶり。もちろん、彼の「恩義」は、単なる言葉だけでは終わらない。祖父への愛は、しっかりと行動にも表れる。 例えば、家康の霊廟である「日光東照宮」。 もともとは家康の遺命で、当初は質素な造りであったのだが大好きな祖父の霊廟ゆえ、3代将軍・家光は、1634(寛永11)年より大改修を指示。そうして完成したのが、現在の姿。あの見目麗しい荘厳な日光東照宮だったのである。 確かに、確かに。 世界遺産となった建築物を見るだけでもう、3代将軍・家光の「祖父愛」が、ジンジンと伝わってくるからスゴイ。 ただ、疑問に思うのがなぜ、そこまで祖父への想いが強かったのかというコト。 どうして、3代将軍・家光は、徳川家康をリスペクトするに至ったのか。今回は、この「祖父愛」の裏側に焦点を当てる。知られざる兄弟の確執から、その結末までじっくりとご紹介していこう。最初から生まれた順番で立場が違う? 日本の歴史上、将軍家の中で最も有名な一族といえばやはり「徳川家」だろう。 江戸幕府を開いた徳川家康を筆頭に、15代まで似たような名前がズラッと続く。その威圧感は、なかなかのもの。ただ、彼らが全員、同じような知名度かというと、そうでもない。一口に徳川家の将軍といっても、本人の意志とは関係なく、2つのグループに大別される。 ひとつは、後世まで有名、もちろん、名前のみならず施策まで誰もが知っているメジャー将軍グループ。片やもう1つは、名前の読み方も分からない、いや、そもそも名前すら知らないようなマイナー将軍グループ。 さて、このメジャー将軍グループの中で、徳川家康の次に有名なのが、3代将軍、徳川家光である。 1604(慶長9)年7月17日、2代将軍秀忠(ひでただ)の次男として誕生。なお、3歳年上の長男「長丸(ちょうまる)」が早世したため、実質的に嫡男という存在であった。幼名も、徳川家康と同じく「竹千代(たけちよ)」。まさに期待が現れた名だといえる。 生母は、織田信長の妹・お市の方の娘である「お江(ごう)の方」。豊臣秀吉の側室であった「淀殿」とは姉妹の間柄だ。ちなみに、お江の方は再々婚。「姉さん女房」として、2代将軍・秀忠の正室に収まったという女性である。 さて、当時の子育ては「乳母」が主流。 特に後継者となれば、その教育はさらに重要となる。ビシバシ英才教育を施し、実母の情を過度にかけないようにと、乳母が養育を担当することが多かった。もちろん、家光(竹千代)にも、絶大なる乳母の存在が。のちに大奥を取り仕切る「春日局(かすがのつぼね、当時はお福)」である。 もともと家光(竹千代)は虚弱体質で、その上、性格も活発な方ではなかったという。よくいえば、おっとりとした性格。悪くいえば、消極的でネガティブ気質であろうか。言葉を話すのも、人よりは少し遅く、場合によっては吃音の症状も出ていたとも。 そんな状況の中、2代将軍・秀忠とお江の方の間に三男が誕生。家光(竹千代)からすれば、生母が同じ実の弟ができたことになる。 この弟こそ、のちの「忠長(ただなが)」。幼名は「国松(くにまつ)」。割と年も近く、約2歳差であった。 弟の誕生により、徳川家のストーリーはドラマティックな展開に。なんと、弟の忠長(国松)の方が、見た目も良く、利発な子だったとか。加えて、弟の忠長(国松)を育てたのは、乳母ではなく生母。お江の方が手元に置いて養育した。 当然、2代将軍・秀忠とお江の方は、この三男の忠長(国松)を寵愛することに。幼いながらも兄より利発。その上、自分の手で育てた子となれば、可愛さも2乗増しくらいとなるのだろうか。こうなると、周囲が黙っちゃいない。 やはり、「火のないトコロに煙は立たぬ」というものか。「まさか、次男が廃嫡(家督相続から排除されること)?」「次期将軍は、次男ではなく三男なのか?」 そんな、まことしやかな噂が囁かれる始末。なんなら、先に取り入ろうとするような輩まで。忠長(国松)本人をも、その気にさせるような有様だったのである。 いらぬ憶測が、周囲にじわじわと浸透するのも、時間の問題であったのだ。きっかけは餅?明暗の分かれた兄弟の行く末 はてどのような、経緯があったのか。 あれほど、次期将軍の誕生が逆転劇になるのではと予想されたのだがあっさりと、1620(元和6)年9月7日、家光(竹千代)は元服して大納言に。その3年後、3代将軍となる。一説には、家光(竹千代)の乳母である「春日局(お福)」がたまらなくなって、徳川家康に直訴したとも。ただ、コチラは、真相が定かではない。 それよりも、確実にいえるのは3代将軍・家光(竹千代)誕生の裏側には、大御所として君臨していた徳川家康の存在があったというコト。家光(竹千代)からすれば、祖父のお陰ということになる。『名将言行録』には、このような記録がある。 三男である忠長(国松)への寵愛ぶりが、徳川家康の耳に入ったのか。ここらで、家光(竹千代)と忠長(国松)の立場の違いを明確にしようとしたのだろう。家康は、早速、2人を呼びつけることに。そうして、2人が来たところで、「家康は『竹千代殿、こちらへ、こちらへ』といって、座っていた上段に招いたので、竹千代は上段に上った。国松もつづいて上段に上ろうとしたとき、家康は『これこれ、もったいない。国松はあちらに行け』といって下座に着かせた」(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋) 現代では、兄弟間でこのような扱いをされることは少ないだろう。もっとひどいケースなら、虐待にもなりかねない時代である。ただ、当時はというとあくまで長子相続が基本。家督を継ぐ者以外の扱いは、本当にひどかったのだ。  まあ、なんとなく、家康の言いたいことも分かる。立場をわきまえろと。そう教えたかったのだろう。さらに、この続きでは餅が出てきて、扱いはひどくなる。「餅がでると、『竹千代殿に差し上げよ』といい、次に『国へも食わせよ』といってそれぞれことばを改めた」(同上より一部抜粋) なんと、家康の細かい配慮だろうか。態度のみならず、言葉遣いも変えて、本人に自覚させたのである。 ただ、それだけでは足りず周囲の者にも、立場の違いを分からせる必要がある。そこで、家康は、2人の供の衆を呼ぶことに。「供の人びとがでてくると『こちらに参られよ』と上段の際まで召し寄せ、餅をつまんで『これを食べてみなされ』といい、次に『国の供の者どもを呼べ』とのことで、供の人びとがその座に入ろうとすると『これこれ、もったいない』といって、餅をつまんで次の間へぽいと投げだし『これを食え』といわれた」(同上より一部抜粋)「じーちゃん強し」そう、家光(竹千代)は思っただろうか。 本人のみならず、仕える者にも自覚をさせるため、家康はこのような扱いをしたのだろう。それにしても、同じ兄弟でも、扱いは雲泥の差。この立場の違いは、時が経過するにつれて大きくなる。その差は開くばかり。 この出来事があってから、2代将軍・秀忠も廃嫡を思い止まったと、『名将言行録』に記されている。 ただ、実際のところは当時の家督継承は、やはり長子相続が基本。一族間で、いらぬ怨恨の種をまかぬようにと誰もが思うもの。つまり、よほどの欠格者でない限り、順当にいけば、次男の家光(竹千代)が次期将軍で決まりだろう。2代将軍・秀忠も、さすがに、そこは理解していたはず。家光(竹千代)が家康の幼名を使っていたコトがその証拠。 にもかかわらず。家康がわざわざパフォーマンスをしたのならどちらかというと、周囲の噂を鎮めるため家臣らがよからぬたくらみを抱かぬようにとの、戒めではなかったか。 結果論とはなるが、祖父の期待通り3代将軍となった家光(竹千代)は、祖父の想いに恥じぬよう、江戸幕府の礎をさらに強固にしたのであった。 最後に三男の忠長(国松)に触れておこう。 将軍の弟君という立場もあり駿河(静岡県)約55万石を与えられて万々歳となるはずが残念ながら、過去の栄光を忘れられなかったようだ。幼少期に両親より寵愛を受け、一時は次期将軍とのウワサも立った。そんな記憶が鮮明に刻まれていたのかもしれない。 ここで、忠長(国松)の胸の内を想像したところで、誰にも分からない。ただ、彼には、理不尽な手討ちなどが多かったという。その後も不行跡と思われる行動をやめることができずなかなか自分を抑制できない、そんな人間になったようだ。 甲斐(山梨県)に蟄居(ちっきょ)となり、謹慎の身分に。最期は、高崎(群馬県)に幽閉され、幕命で自害に。享年28。お江の方も、2代将軍・秀忠も先に亡くなっていたのが、せめてもの救いだろうか。 同じ両親から生まれたにもかかわらず全く正反対の人生を歩むこととなった2人。もう少し、違う結末がなかったかと、考えさせられる。 というのも、私、Dyson 尚子には、5歳離れた姉がいる。だからだろうか、時代も性別も全く違うのだが、つい、自分たちを2人に重ねてしまう。 姉は豪快なようにみえて、じつに繊細。性格は正反対だが、私はそんな姉が大好きだ。口は悪いが。いや、顔も怖いか。声もデカいし、とにかく圧がスゴイ。けれど、私は、本当に彼女を尊敬している。だからこそ思う。彼らも現代に生まれていれば、と。果たして、違ったラストに書き換えられただろうか。 一方で有り余る3代将軍・家光の愛情は、祖父へとまっしぐら。なんでも、家康亡きあと夢の中で祖父と会話することもしばしばだったとか。単なる思い込みなのか、願望なのか。ひょっとしたら、スピリチュアルな話なのかも。 ただ1つ。3代将軍・家光の誕生日は、家康の月命日の17日。そんな偶然を「運命」だと、あっさり信じてしまう純真無垢な若き日の「竹千代」の姿。これまた、随分と容易に想像できるから仕方ない。 そんな事情もあって、彼のリスペクトはさらに過熱。 そこにあるのは輝くばかりのピュアな「祖父愛」であった。[参考文献]岡谷繁実『名将言行録』(講談社、2019年8月)東由士編『徳川四天王』(英和出版社、2014年7月)河合敦『神社で読み解く日本史の謎』(PHP研究所、2015年6月)白嵜 顕成、田中 祥雄、小川 雄『阿茶局』(文芸社、2015年10月)日本文化の入り口マガジン 和樂 web、2020.10.023代将軍はおじいちゃんLOVE?徳川家光の「家康への恩義」と知られざる兄弟の確執(Dyson 尚子)https://intojapanwaraku.com/culture/120951/ 28歳で自害した忠長の正室(諸説あり)・お昌の方(織田昌子)は、夫の菩提のために寺を建立するが、公儀を配慮し、忠長の乳母きよ(清)を開基であると披露、お昌の方とお清の二人の名前をとって、昌清寺と称するのだそうです(現:浄土宗・昌清寺、文京区本郷1)。 この境内には「花見塚」があり、松尾芭蕉が1688(貞享5)年に吉野で詠んだ俳句が句碑として建っています。桜狩り きとくや日々に 五里六里 西行への想いと分別しがたい桜見物であり、しかも最愛の弟子杜国も一緒となれば日に5里や6里は何のその。 とはいえよくよく物好きなことではある。 紀伊半島一帯は上下・南北に地形が入り組んで、おまけに豊富な樹種もあいまって桜の季節が長い。 思う存分の桜見物であった。https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/oinokobumi/oino29.htm close

川越喜多院で
サイト名 山歩クラブ
タグ お寺 日記
投稿日時 2022-04-04 15:01:01

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